生きるということ
お通夜に参詣することは昨日が久しぶりでした。ほとんどが儀式を執行する人として行くので。
いつもは背を向けている景色を前から見ることはある意味新鮮だったりする。
ところで死とはなんだろう。
仏教では、「生死一如」と教える。生まれ生きていくことと命終わり死んでいくことは一つの紙切れには必ず表と裏があるように表裏一体。同じ一つのことなのだと教える。
たしかにその通りだと思う。
だけど、
「生まれたからには必ず人は死ぬんです」
なんて言葉では納得できませんね。それはただの事実。ただの事実なのである。人には感情がある。
オギャーと生まれてきた赤ん坊。ほとんどの場合、笑顔や感動の涙で迎えられる。それは何故か。可愛いから。そして、これから共に歩んでいくであろう未来を想像し胸を膨らませるからだ。
では死はどうだろうか。
もう話すこともできない。間も無く顔も見れなくなる。そして、これまであったたくさんの思い出が込み上がってくる。だから悲しい。たくさんのご恩や苦楽を共にしてきたから悲しいのだ。寂しいのだ。
でもここで一つだけ注意しなければならない。
それは悲しみは悪ではないということ。
大事な人の死は悲しいが事実であって、悪いことではないということ。ここが時々ごちゃ混ぜになるとややこしくなる。
死んだ時のことを考えるのは縁起でもないと口を大にして言う人がたくさんいる。本当にそうか?
しっかり考え、決めておくからこそ安心して死に臨めることの方がわたしは多いと思う。
亡くなった時のことを考えて亡くなる人がいたら、ほとんどみんな亡くなっています。
死を考えるとは。どんなお別れにするのか。葬儀はどんな形?お坊さんは?葬儀屋さんは?お墓はどうする?
一度決めたら安心ですよ。息子や孫に迷惑かけたくないなら、ちゃんと決めて「こうしたいんだ」と息子や孫に伝え相談しましょう。そうすればみんな安心。ちゃんとお別れに臨めますよ。
そんなことも伝えなくてはならないこととして、一年やってきたがどれだけ伝わったのだろう。
うちは飲み屋であり寺である。
「死んだら読経よろしくね!」なんて言葉が嬉しくもあり寂しくもあるとその言葉を聞くたびに思うけど、ちょっとずつだが、大事な仕事ができているかなと実感できる瞬間である。
驕らずにコツコツとやるべきことをやっていこうと思った今である。
さ、お店も営業開始。
らっしゃいらっしゃーい!
0コメント